今日はインプットについて話します。編集者として何を目や耳に入れ、何を感じ取っているのか。そしてそれをどうアウトプットに活かしているのか。そんなことを考えてみたいと思います。のっけからちゃぶ台を返すようですが、「インプット(情報収集)」ってほんとに注目されなくなりましたよね。10年近く前は「インプット術」をテーマにした本もたくさん出ていましたし、売れたものもそれなりにありました。でも今は「一流の人はここから情報を得ている」みたいなコンテンツはほとんど、いや、まったく見なくなった。単にそういう情報が僕の目に入ってこなくなっただけかもしれませんが、少なくともインプットブームが過去のものになったという感覚は強くあります。僕自身はここ1、2年くらいは最新ニュースやトレンドを積極的に外に取りに行くよりも、内で深く考える時間がずいぶん増えました。取材や打ち合わせで得られる情報を除くと、いくつかのルート(情報源)に固定化されつつあります。SNSもほぼ見なくなりました。こうした変化は年齢のせい、あるいは環境や心境によるものかもしれませんが、どうなんでしょう。みなさんはいかがでしょうか。あえて言うまでもなく、編集者にとって情報収集はとてもたいせつです。情報の量と質は企画、文章、コピー、デザインといったアウトプットを大きく左右するし、取材や打ち合わせでの引き出しの多さ(深さ)にもつながります。販促戦略を練る際の貴重なカードにもなり得ます。アンテナをできるだけ広く張り、継続してキャッチアップしていかなければならない。だから今でも「最低限これくらいは知っておかなければ」という意識はありますし、流行りものがあれば覗き見に行くようにしています。でもインプットをそれなりに長く集中的に続けていると、だんだん最新のトピックや言説を見ても、「ああこの手のやつね」と脳内で自動タグ付けするようになるんですよね。既視感。焼き直しの焼き直し。味のなくなったガム。昔はささいなことでも驚いたり共感したり、ときには価値観を覆されたりもしたわけですが、もうその刺激に慣れすぎてしまったからなのか、とくにスマホやパソコンを通して得た情報に対しては、フォーマット化された仮説に当て込んでポイ捨てしている感覚です。情報中毒だったら刺激的なものを求め続けるのでしょうが、僕の場合はそういうわけでもなく、むしろ距離を置いているというのが実際のところです。そして「情報の引きこもり」とも呼ぶべき自身のインプット状況について、これといった問題意識を持ち合わせてはいません。ただデジタル空間から遠ざかる一方で、足を運べる場所への関心はむしろ高まっています。たとえば、僕は大きな出版プロジェクトを動かすときに、オリエン(オリエンテーション)という現場見学を行うようにしています。著者の会社が商品サービスを開発・提供している現場に訪れて、できるだけ隅から隅まで見せてもらい、ときには業務の一部を経験させてもらいます。店舗ビジネスだったらお店に、製造業だったら工場や研究所に足を運びます。遠い地方でも、片道で半日近くかかったとしても、自分の五感でインプットするようにしています。どんな環境でどんな業務をしているのか。どんな人がどんな表情で働いているのか。お客さんはどんな人なのか。どんな課題があり、どのように向き合っているのか。そういったことを一つひとつ丁寧に見ていきます。それが本づくりにどんな影響をもたらしているのか? 正直よくわかりません。ですが画面越しでは得られない、その企業の「本質的な部分(コア)」を毎回持ち帰ることができているという感覚はあります。そしてそもそも、「著者や読者のインサイトは現場を訪れることでしか得られない」というのが僕の基本的な編集方針でもあります。最初に勤めていた会社では、雑誌やムックの新しい企画を出すと、決裁者である副社長から「現場を見に行ったのか?」と毎回尋ねられました。そこで「いえ、ネットで見つけました」と答えると、「だからこんなつまんねえ企画なんだよ!」と叱られました。たとえ企画の面白さを熱弁しても、説得力あるエビデンスを出しても、「……でも現場見てないんだろ。そりゃダメだろ!」と一蹴されます。副社長は『POPEYE』や『BRUTUS』といったカルチャー誌出身だったこともあり、「良いネタは足を動かしてでしか手に入らない」という確固たる哲学があったのかもしれません。僕が長時間デスクに向かって仕事をしていると、やれやれと向かってきて「映画でも見てこいよ」と言うような人でした。結局その会社では、3、4回くらい業務の合間に映画を観に行ったと思います。オフィスはキャットストリート沿いにあったので、原宿や表参道を歩く人たちのファッションの変化や、ニューオープンしたお店を見つけて報告すると、すごくうれしそうな顔をしてくれました。そうした行動原理が20代半ばまでに染みついたせいか、考えてみれば、3社目となる出版社に勤めているときも自席にいることはほぼなく、書店に行ったり、美術館に行ったり、映画を観たり、講演を聞きに行ったり、昼間から著者と酒を呑んだり、それはそれは自由気ままにほっつき歩いていました。自席で数十分経費精算しているだけでも、まわりの社員から「今日はオフィスにいるんだね」と驚かれる(あきれられる)ほどでした。だけどそれくらい、外に出ることの重要性は出版業界では広く了承されていたし、室内でじっとしているのが苦手な僕にとっても、そのカルチャーは非常にフィットしたものでした。さて、じゃあ僕は現場に足を運んだとき、何を感じ取り、どうやってアウトプットにつなげているのか?結論から言いますと、何も考えていないんだと思います。もちろん実際にはいろいろなものを見て、聞いて、話して、触れているわけですが、具体的に何か有益なものを持ち帰ろうという意識はありません。取れ高を気にしたこともありません。かといって「観察している」とか「共感している」と言うのもまた違う気がします。純粋にその場の空気を体感している、ただそれだけ――と言ったらアホっぽく聞こえるかもしれませんが、現実にそうなんです。ただ踏み込んで考えてみるなら、「現場で会った人の視点や感情をトレースしている」という気はします。表現がむずかしいのですが、自分の肉体から意識を切り離し、その人に同期させるイメージです。見える景色も、聞こえる音も、抱いている感情も、その人自身として知覚する。要は「その人になる」ということです。比喩として聞こえるかもしれませんが、僕としては本当に「その人として」知覚し、思考しているのです。これには原体験があります。大学生の頃、グアムに観光で行きました。途中でスコールにあったので、おそらく雨季だったと思います。どこに向かっていたのかは覚えていませんが、日中にタクシーで移動していました。ぼんやり窓の外を眺めていると、薄汚れた20、30戸くらいのアパートの脇を通りかかり、その1階のベランダで空を見ている女性が目に入りました。30代後半から40代半ばだと思います。身なりはお世辞にも裕福そうには見えません。感傷に浸っているわけでも、悩みがあるわけでもなさそうです。肩の力が抜けた状態で空(なのか「空中にある何か」)に顔を向けていました。そのときです。気づいたら僕の意識は、その女性に移行していました。具体的に見えた、感じたというよりも、「知覚する主体が総体的に切り替わった」という表現が近いです。まさに自分の意識が切り離され、その女性に同期していた。ただ僕は混乱することなく、ごく自然にその切り替えを受容していました。そして同時に、大きな哀しみが襲ってきました。というよりも、「大きな哀しみの渦中に自分がいる」ことに気づきました。深さ10メートルの水中でクラゲのように漂っている感じです。その哀しみは、愛する人を失った劇的な悲しみというより、静かで澄んだ哀しみでした。そして、気づいたときには涙腺がゆるんでいました。なぜなのかはわかりません。いずれにせよそれは、自分が味わったことがない種類の哀しさでした。振り返って思うのですが、あれはスピリチュアルな体験というより、「仮説をつくる方法が新たに誕生した(拡張した)」という、どちらかといえば実務的な体験だったと感じています。というのは、そのとき知覚・受容した感覚は、極めてリアルに僕の中に残り続けているからです。なんなら現実に起こった出来事よりも手触りを感じるほどに、強く深く。以来、この「同期(Attunement)」はある種のテクニックとして昇華され、社会人になってからも仕事で出会った人に対して行えるようになりました。準備は不要です。目の前にいる人に同期し、その人として知覚する。それだけです。もちろん僕が勝手にやっているだけなので、相手は感知していない――と思います。でも、いつ、どこでも、だれに対してでも行えるわけではありません。まずオンラインではむずかしい。五感的な情報が少なすぎるし、その人にアクセスするための間合いも見つけにくいからです。呼吸が読みづらい。だからリアルであることが大前提となります。そして、普段の生息エリアを離れて物理的、時間的な移動を伴っていることも重要な条件です。移動のプロセスを経て、意識が別のチャンネルに切り替わるからかもしれません。必ずしも長距離・長時間である必要はないのですが、移動が条件になっている感覚はたしかにあります。あと対象相手で言うなら、著者(経営者)本人には同期できません。なぜでしょうね。おそらく著者には「別の方法」ですでに同期しているからかもしれません。同期の種類が違うというか、丸裸というより僕(編集者)のアイデンティを保持しながら同期している感覚です。これについて話すと脱線しそうなので、別の機会にまた考えてみたいと思います。インプットに話を戻すと、そんなわけで僕は「効率的に広く情報を集めること」よりも「情報化されていないものを知覚すること」に重きを置いているようです。これは善し悪しの問題ではなく、あくまで今の僕がそれを求めている、ということです。「十数年ぶりにインプットのやり方が戻った」と言うほうが正確かもしれませんね。歴史は繰り返さないが、韻を踏む。これは個人にも当てはまるということなんだと思います。ということで、情報収集については大局的なトレンドさえつかめてさえいれば、あとはあれこれ考えなくてもいいのではないでしょうか。得るべき情報は、足さえ動かしていれば自然に見つかる。脳よりも足のほうが得るべき情報源の在処をわかっている。僕はそう思っています。