三度の飯ほどではないけれど、「今の仕事を選んだ理由」について話を聞くのが好きです。その人の思想や哲学の根っこに触れられることがあるし、時にはまるでフィクションのような数奇な運命を追体験できることもあるからです。もっとも、「なんとなく」以上の回答が出てこないケースも少なくなくて、そういうときは無理に掘り下げず、別の話題に切り替えて耳を傾けるようにしています。ただこと編集者に関して言うなら、仕事を選んだきっかけは「好き」や「憧れ」という人が圧倒的に多いように思います。本づくりに興味があった、書く(読む)のが好きだった、憧れの作家と一緒に仕事をしたかった、なんかかっこよくて(おもしろそうで)……まるで示し合わせたかのように同じ種類の回答が出てきます。世の中にはその仕事を選ばざるを得なかった人もたくさんいるでしょうし、編集者にだって「今」は鬱々とした気持ちで日々を過ごす人はいるでしょう。好きや憧れは長く続きづらいものですからね。でも少なくとも当初は「出版業界で働きたい」「編集者として活躍したい」といった希望を抱いてスタートすることが多いようです。というか僕はそういう人しか見たことがありません。「仕事はなんでもよくて、とりあえず編集者になってみた」とか「本づくりなんてやりたくなかったんだけど、仕方なく編集者になった」という人はいないのではないでしょうか。いるのかな。いたらこっそり教えてください。いずれにせよご多分に漏れず、僕もこの仕事をやりたくて始めた人間のひとりです。誰に勧められたわけでもなく、自分の意思で選択しました。ただ子どもの頃からの夢だったかというとそんなことはなく、「波に飲まれていつのまにか行き着いていた」というのが率直な感覚です。僕はもともと本を読む人間ではなくて、高校生までにまともに読んだ記憶があるのは『おさるはおさる』と『ダレン・シャン』ぐらいです。『おさるはおさる』は「けづくろい」と「カエル投げ」のシーンがとても好きで、そのページばかり何度も繰り返し読んでいました(絵本だから「見ていた」という表現のほうが正確かもしれませんが)。『ダレン・シャン』は1巻の終わりが衝撃的で、2巻の前半くらいまでは頑張って読んだ気がします。学校の授業は寝ていた、ないしは半ば意識的に耳を傾けていなかったので、国語の成績は惨憺たるものだったし(他の教科もひどかったのですが)、当然というべきか書くことにも読むことにも関心はありませんでした。読書が習慣化したのは17歳か18歳のときです。当時僕は、某附属高校を中退して、新たに単位制の高校に通っていました。ギターを習い始め、ブルーズやジャズの世界に入り込むようになっていました。毎日のようにバイクで出かけては明け方まで友人と遊んでいました。アイデンティティがうまく定まらないまま、誇張や見栄で壁をつくりながらも高校中退というコンプレックスを直視できずにいる――要するにいろいろと不安定な時期でした。今なら「10代なんてそんなもんだよ」と軽くあしらえるのですが、当時はそれなりに生きるのがしんどかった。そんななかで、当時住んでいた田無にある書店で、『キャッチャー・イン・ザ・ライ(ライ麦畑でつかまえて)』を手に取り購入しました。自分のお金で買った初めての小説です。なぜ手に取ったのか、経緯はどうしても思い出すことができません。ジャンプでも買いに行ったときに偶然目に入ったのかもしれないし、誰かに勧められていたのかもしれない。ともかく田無駅近くの書店で平積みになっていた光景だけはぼんやりと覚えています。この作品は16歳の主人公ホールデンくんが高校を退学し、そこからニューヨークの街をさまよう数日を描いた物語なのですが、村上春樹さんが「呪術的」と評したように、ジョン・レノンを射殺したチャップマンの愛読書だったように、単に「思春期の葛藤を描いた」以上の、人間の魂を根源的に揺さぶる「何か」があるように思います。ただ当時の僕にとっては「主人公が高校を退学した」という共通項だけで、この本を読む動機は十分すぎるほどでした。2校目には僕と同じようにドロップアウトした生徒がたくさんいたのですが、単位制というシステムの都合上、毎回同じ授業に出るわけではないし、前の高校で何があったのか(つまりなぜ退学したのか)については聞かないのが暗黙のルールでした。お互いが「何か」を抱えていることを、言葉を交わずとも理解し合っていたように思います。先生たちもそれをわかっていてか、気を使って接してくださっていました。今なら退学した理由を説明できるのですが、当時は感情を整理する力も、それを伝わる言葉に変換する力も、まったく持ち合わせていませんでした。自分が決めたことに間違いはないのだけど、その決断をした理由がわからない。なぜわざわざ自ら社会的レールを外れておきながら苦しんでいるのか? 誰かに責任を押し付けることができれば楽だったのかもしれませんが、そういうわけにもいきません。まるで自分の中にまったく知らない「何か」がいて、その「何か」が聞いたことがない言語を発しながら首を絞めてくる――いわゆる自己分裂的な症状だったのかもしれません。だからこそ、ホールデンくんの「行動と精神の一貫性のなさ」みたいなものが、当時の僕にはすっと入ってきたのだと思います。彼の分裂した魂が、僕の分裂した魂と呼応したのではないかと。一例を挙げましょう。ホールデンくんは高校を退学した足で実家に帰らず、ニューヨークの夜の街を出歩き、ホテルに泊まることにします。そしてその場の勢いで娼婦を買うことにします。しかしいざ部屋に呼んでみたものの、行為をする気になれず「話をしたいだけ」と娼婦に伝えます。でも会話はまともに成立せず、最後には売春の斡旋屋に金をゆすられ殴られます。僕はこのシーンを読んだとき、まるで自分がそのまま経験しているような錯覚を覚えました。現世の世界に戻ろうと半歩踏み出してみたものの、実際にはそこから先に進む勇気や覚悟は持ち合わせていないし、どんなリスクが潜んでいるかもわかっていない。元いた世界に戻りたいけれど、気持ちが追いついていない。自分が本当に何を望んでいるかなんて、何もわかっちゃいないんだ。そう感じました。ただ同時に、ホールデンくんを媒介として自分の中で分裂していた「何か」とつながることができたという感覚も覚えました。短い時間ではあったものの、気づいたら「何か」と隣で肩を触れ合いながら同じ空気を共有していた――そんな感覚です。このときの「肩触り」は今でもはっきり覚えていますし、ずっと残り続けています。言わずもがなこうした読書体験は初めてのことでした。そして、本を読むことは受動的な行為ではなく、魂の一部を共有し合う、いわば双方向性を伴う行為なんだとも思いました。そんなわけで僕の読書遍歴は『ライ麦畑』に始まり、そのままアメリカ文学全般に流れていき、結果として大学では英米文学を専攻することになります。サリンジャーだけでなく「翻訳家」の村上春樹さんが訳していたレイモンド・カーヴァー、フィッツジェラルド、チャンドラーなどはもちろんのこと、マーク・トウェイン、メルヴィル、ポーといった古典や、柴田元幸さんや岸本佐知子さんの訳書も積極的に手に取るようになりました。今はなき三省堂新宿店でアルバイトしながら、飲み会やデートよりも一冊3,000円近くするトマス・ピンチョンの全集にお金をかけるほどアメリカ文学に傾倒していました。その代償としての中二病というべきか、日本の小説や音楽を斜に見ていたのはご想像のとおりです。さて、仕事はどうしよう?――本格的に就職について考え始めたのは大学4年生の3月です。それまでは、右ならえでリクルートスーツを着て大人に媚を売るのは非人道的だと思って就活をしていませんでした。高校を中退したときから(もともといた数少ない友人を除き)同世代と付き合うのが苦手になっていたこともあり、サークルや部活にも入らず、ほとんど一人で行動していました。だから同学年の人たちと比較する機会もなく、就活情報が耳に入ってくることがないまま、あと1カ月で卒業するタイミングを迎えていたのです。大学では人生で初めて座学の楽しさを知り、講義には積極的に参加していました。授業中に本を読んでいたら「出てけ」と言われて出て行ったことはありましたが、最前席で受講することも珍しくなかったし、レポートも時間をかけて丁寧に書いたし、基本的にはちゃんと勉強する学生だったと思います。卒論がその年の優秀論文に選ばれたときは、まさか自分が学校というシステムから評価される日が来るとはと驚いたのを覚えています。そんなこんなで、文学の道(研究者や翻訳者)で食べていくことを考えた時期もあったといえばあったのですが、ただ僕には「これを研究したい(訳したい)」という強い欲求がなかったため、半ば消去法的な形で「編集者として本づくりに関わることができたらいいな」と思いました。安直ですよね。でもいわゆる業界研究や自己分析をいっさいしていなかったので、選択肢がそれくらいしか思いつかなかったのです。ところがいざ編集者の募集情報を調べてみると、そのほとんどにおいて「2〜3年以上の編集経験」が条件になっていることを知りました。未経験の自分が採用される見込みはどう考えても低そうです。そこで採用してくれそうな企業を見つけ出すため、グーグルで「編集者 採用」と検索した後、10ページ目から順に探していくことにしました。それくらい後ろのページにある募集なら倍率が低そうだと踏んだわけです。12ページ目くらいに、ある編集プロダクションの社員がFacebookで編集アルバイトを募集している投稿を見つけました。経験不問だったし、なんとなく「よさそうかな」と思ったので、応募文面を送りました。編集の仕事ならアルバイトでも派遣でも何でもいい。ごく自然にそう思っていたのです。若くて視野が狭かったというべきか、軽々しく新卒のカードを捨てようとするなんて、まあ無知とは恐ろしいものです。3月31日の土曜日――つまり大学生としての最終日――キャットストリート沿いにあるその会社に面接に行きました。面接官はFacebookでやりとりした編集部の社員です。どんなことを話したのかは覚えていないのですが、特段変わったやりとりはなかったように思います。面接の教科書に書かれていそうなことを聞かれ、当たり障りのない回答をしたのではないでしょうか。自宅に帰るために高田馬場駅の山手線から西武新宿線への乗り換え改札を通ろうとしたとき、電話がかかってきました。あと数歩で改札を通るところでした。声の主はさきほど面接をしてくれた社員です。「社長が会いたいって言ってるから、戻ってきてくれる?」正直いい予感はしませんでした。何か癇に障ることを言ってしまったのか、変なお願いをされるのか、履歴書に不備でもあったのかなと思いました。再びオフィスを訪れると、無精髭を生やした小柄な社長と、さきほどの社員が再び会議室に招いてくれました。社長にあいさつをして、10分か15分かそこら話をしました。社長はじっと僕の目を見ながら何度かうなずいていました。そして最後にこう言いました。「今人が足りていないから、明日日曜で悪いんだけど、明日から社員として来てくれる?」何がなんだかわかりませんでした。僕はアルバイトの面接に来たわけですし、だいいちその返事すらまだもらっていません。そもそもその会社が何をやっているのを――おしゃれな街にあるおしゃれなオフィスで、女性誌の制作をしているらしいこと以外は――何もわかっていません。なのに社員? しかも明日から?「はい、わかりました。ぜひお願いします」僕の口は反射的に動いていました。それと同時にどこからか「ここで頑張ってみよう」という声が聞こえた気がしました。そのようにして2012年4月1日日曜日、僕は編集者としてのキャリアをスタートさせました。前日まで何も決まっていませんでしたが、突然の荒波に飲まれるような形で出版業界に入ることになったわけです。最初の仕事は『an・an』のヘアカタログを制作するために読者モデルの女の子たちにひたすら電話をかけ、撮影日の調整をすることでした。そこからは、長い時には1週間以上泊まり込みで働きながら少しずつスキルや思考を体得していきました。安月給でブラックな労働環境でしたが、大変なことは織り込み済みだったし、体力にはそれなりに自信があったし、何より新しい経験ばかりで楽しく、魅力的な人たちにもたくさん出会うことができました。もちろん理不尽なことも数えきれないほどありましたが。1社目では雑誌やムックの編集経験を積み、その後は出版社に転職して書籍編集に携わるようになりました。結局文学の世界とは縁がないものの、やりたかった(というかそれ以外思いつかなかった)編集の仕事は有難いことにずっと続けられています。「編集者になりたいのですが、どんなことをしておけばいいのでしょうか」。そういう質問をいただくことがありますが、お役に立ちそうな回答を出すのはむずかしいです。でも少なくとも僕にとっては、今お話ししたようなマイノリティになった経験と、自分の中で分裂してしまった「何か」とできるだけ多く隣り合うようにしていたことは、編集者として様々な人たちとチームを組成して意思疎通をしたり、様々な経営者の、様々なテーマの本をつくる上で役立っているのではないかと考えています。もし高校を辞めていなかったら? 時々そんなことを考えます。さて、どうなっていたのでしょうね。編集の仕事はしていなかったかもしれません。アメリカ文学もビジネス書も読まず、出版業界なんていっさい興味をもたなかったかもしれない。『おさるはおさる』と『ダレン・シャン』しかろくに読んだことがないまま息を引き取っていたかもしれません。そう考えると、やっぱり人生っておもしろいものですよね。